ミャンマーよもやま情報局

関西福祉大学 勝田吉彰研究室。科研費研究でミャンマーに通っています。学会発表や論文には入らないやわらかいネタをこちらで発信しています。取材や照会など連絡先はこちらへ myanmar@zaz.att.ne.jp

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アウンサンスーチー氏が日本に複雑なまなざしを向ける歴史的経緯のコンパクトな解説(イラワジ)

アウンサンスーチー氏が日本に複雑な感情を抱いているらしいというのはヤンゴン邦人社会の巷で耳にするところではありますが、その経緯を総合的かつコンパクトに解説する良記事がイラワジ紙に載っています。かいつまんで紹介

2016年5月6日付イラワジ誌。東京ラブストーリーかバトルロワイヤルか?と洒落た見出しの注目記事。要旨は

  1. 岸田外務大臣とアウンサンスーチー氏のスマイルと握手は国営メディアの一面をデカデカと飾った。しかしこの笑顔と握手の水面下には不和の歴史も隠れている。
  2. 民政移管とともに日本はティラワSEZ開発や日本財団から和平プロセスへの支援がおこなわれているが、かつて軍政時代にアウンサンスーチー氏はこのような日本の援助に反対をとなえていた。軍事政権を利するからという理由で。しかし(もっと親密だった)中国と同様に、東京に対しても(スーチー氏の反対は)抑止にならなかった。
  3. 昨年の総選挙でNLDが地滑り的勝利をおさめて、日本のビジネスマンは困惑した。安倍政権はアウンサンスーチー氏と緊密な関係を築いてこなかったが、総選挙から3週間と経たないうちにNLDの大物を日本に招待した。そして11月27日にはニャンウイン氏が東京で岸田外相と会談してさらなる投資と技術支援を要請した。
  4. 今週岸田外相ミャンマー訪問でアウンサンスーチー氏と1時間以上にわたって会談し(注:日本の報道では当初30分予定だったが45分に延長と書いてある)、援助・ビジネス・少数民族との和平プロセスなどについて話し合った。引き続いてティンチョー大統領と会談したがこちらは15分しか費やさなかった。
  5. 1985-86年にアウンサンスーチー氏は京都大学で学び友人をつくったが、彼らはいずれもビジネス界の人間ではなかった。2013年にアウンサンスーチー氏が再訪したとき、安倍首相と会っている。
  6. 1940年代前半に父親のアウンサン将軍は日本軍の支援を受け、オモダモンジという日本名をもらっている。彼らと同士、30人の志士たちは当時植民支配していた英国と戦うために日本軍から武器や資金の支援を受けていた。しかしその後寝返っている。
  7. 1960年代になって30人の志士のひとりネ・ウィン氏は東京との関係強化を模索した。彼が政権をとった26年間のあいだ、日本から資金と借款を引き出している。当時は日本もビルマが経済的に高いポテンシャルをもつと考えていた。
  8. しかし1980年代後半からの混乱でアウンサンスーチー氏は自宅軟禁となった。1995年に軟禁が解けたとき、日本の毎日新聞は「スーチーからの手紙」という記事を掲載した。その中でアウンサンスーチー氏は日本の対ビルマ支援に対する反対を隠そうとしなかった。
  9. 興味深いことに、日本は、アウンサンスーチー氏の解放を一番最初に知った国だった。そしてただちにODAを再開した。つまりアウンサンスーチーを解放することがODA再開の交換条件だった。だが、それにもかかわらずアウンサンスーチー氏は援助再開に反対した。FarEasternEconomicReviewのインタビューで、たとえ自分の解放に対する報酬だとしても、自分は政治犯のひとりであり、他にもまだ収監されている人々がいる。ただひとりの解放は、援助を再開する条件として十分ではないと。
  10. それまでの援助とは別に、日本政府は黄金の三角地帯での麻薬(ケシ)栽培の対策としてソバ栽培技術を伝えて代替作物とする資金提供もおこなった。
  11. こうした日本の支援にアウンサンスーチー氏はイライラを募らせた。解放後間もない1996年には毎日新聞に寄稿して日本企業、ビジネス界にネガティブな感情を書き綴った。
  12. 1996年にはアウンサンスーチー氏は日本大使館を通じて橋本龍太郎首相に書簡をおくり、ODA大綱にそってその経済力をミャンマー民主化に向けてほしいと書いたが返事はなかった。その当時、軍政に近いビジネスマンや政府関係者から、アウンサンスーチー氏に批判的な論評が発表された。当時の実力者の中に、アウンサンスーチー氏がビジネスや援助の障害になると感じている者がいたのは明らかだった。
  13. しかし今やアウンサンスーチー氏が権力を握った。ミャンマーを訪れた岸田外相は、ミャンマーの雇用創出と、農業・教育・財政・医療・インフラ分野での協力を表明した。アウンサンスーチー氏は外務大臣の役割として「日本国民からの支援と親切に感謝する」と述べた。外相を通じて安倍首相は私信をおくり日本に招待した。
  14. ネピトーで新たな政権に求愛行動をおこなっているのは日本だけではない。総選挙の数か月前、アウンサンスーチー氏は北京にいた。それはおおきな外交的転換点であった。というのも、まだその当時、政権の敵方であったアウンサンスーチー氏に招待状をおくったのは中国側だったからだ。次の政権として賭けたのだった。彼らにとての関心は「スーチー氏は中国のビジネスを守ってくれるのだろうか」だった。
  15. NLDが政権をとってまもなく、王外相アウンサンスーチー氏の招待でミャンマーをおとずれで周囲を驚かせた。そして習氏は王外相を通じて、再度の北京訪問を招待した。
  16. まだ外務省は意向を明らかにしていないが、彼女が中国と日本とどちらを先に訪問するのかに注目が集まっている。

と、全体がうまく網羅されています。
日本のメディアが報じないこともてんこ盛りで一部太文字アンダーラインしています。外相の電撃訪問が実はアウンサンスーチー氏の招待だったこと、軟禁解除は真っ先に日本政府に報告されそれを合図に援助が再開されたことなどなど。

そしてまた、アウンサンスーチー氏のしたたかさも浮かび上がっています。中国と日本とどちらに最初に訪問するのか注目を集めておきながら、実は、最初の外遊はラオスだったとか。。。

今後、この方の顔色をみながら日本も中国も一喜一憂の日々となるのでしょう。

全文はこちらから

Suu Kyi and Japan: Tokyo Love Story or Battle Royale?



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